「信仰がなくては、神に喜ばれる事はできない。なぜなら、神に来るものは、神のいますことと、ご自身を求めるものに報いてくださることとを、必ず信じるはずだからである。」。(ヘブル11:6)この御言葉から私たちにとって信仰が必要である事は異論はありません。信じ、信じ続け、信じ抜くことに勝るものは信仰生活にはありません。
☆しかしアブラハムと言う人物が新約聖書において、どのように捉えられているかと言う事について、十分に考える必要があります。アブラハムの信仰は神に選ばれた人がその信仰生涯を全うする道程を示しています。その名前が、「高められた父」と言われる所以でもあります。
☆またアブラハムの子イサク、その子ヤコブ(イスラエル)、その末から生まれた民族、イスラエル国家が創世記22章で語られている子孫とどのような関係にあるかということについても考察する必要があります。それは単に血縁の子孫なのか?、それとも信仰の子孫なのか?、ということがここで問われているのです。
☆そのことを最も厳しく問い詰めているのがパウロです。信仰かそれとも律法主義か?神の約束かそれとも律法の行為か?割礼か聖霊による信仰か?行為による救いか?、モーセかアブラハムか?、十字架による救いか?こうした二者択一の議論をパウロの手紙は面々と述べてしいます。
☆その事は現在における教会の制度、形式、組織、あるいは教会の権威と個人の信仰と救いとも対比して取り扱われていかなければなりません。
実はパウロ神学によってのみ、今日のキリスト教会は成立するのです。それはユダヤ教とキリスト教、カトリックとプロテスタント、教団教派と個人の信仰、伝統主義か聖書主義か?などのテーマを私たちに投げかけています。
1)アブラハムに関する創世記以外の記述について。
ヘブル11章
ローマ4章
使徒3章
ガラテヤ3章
ハバクク2章
イザヤ51章
マタイ1:1 その他多数
2)それぞれに与えられた。2019年の御言葉を紹介してください。その言葉の意味、背景、そのメッセージをまとめてください。
3)使徒9章のパウロの回心以後、彼は何と戦ったのか?異邦人宣教の鍵は何であったのか?
4)「約束の成就」と言う聖書の流れの中で、ガラテヤ3章とイザヤ42:4の御言葉をどのように調和すべきか?
5)感謝聖餐式