2023.4.16

「荒野花咲」

テーマ「草は枯れ花は萎む」

聖書 イザヤ40:1-11、第一ペテロ1:22-25

 

「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。確かに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、我々の神の言葉は、とこしえに変わる事はない。」(イザヤ40: 6-8)

 

第二イザヤの冒頭に永遠と刹那の哲学が披瀝されています。先週はイースターでしたが、復活のキリストによって私たちは、永遠に生きるものとされました。まさに、永遠の運命は、キリストの手中にあり、私たちがこの方を受け入れるか、拒むかが、永遠の栄光か滅亡か、また天国か地獄かを定めるものです。

イザヤ書40-55章を、一般的に第二イザヤと呼んでおります。その背景がバビロンに変わったからです。もう1人のイザヤがいたかどうかはここでは議論しません。

今預言者イザヤがいるところはバビロンですが、そこから彼の目はエルサレムに向けられています。70年のバビロン捕囚の終わりを予見し、まもなく神の救いのわざが行われようとしているのです。夜は過ぎ、朝は近い。

私が長年研究してきました「ヘンデル作曲、オラトリオ メサイア」は、40章1節の「慰めよ、わが民を慰めよ」から始まります。人生の苦しみ、悩みを深く経験していたヘンデルにとっても、この御言葉が希望の光となりました。

 

「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、我々の神の言葉はとこしえに変わる事はない」(40: 8)

これは日本の私たちには「諸行無常」のように響きます。しかし、後半に「永久に変わることはない神の言葉」が宣言されています。

変わるものと変わらないもの、過ぎゆくものと永遠に残るもの。これは私たちが見分けなければならない真理です。私たちの生き方の本質が変わらないものであるか、私たちが信頼すべきお方が変わらないお方であるか、私たちが権力や財力によって振り回されることなく、永遠に変わらない神の言葉の真理によって生かされているか。

 

預言者イザヤは、大国アッシリアの滅亡を見ました。そして今大国バビロニア帝国の滅亡を見ています。小国であるイスラエルが、弱小国にもかかわらず、神のご計画によって生かされている事実に希望を持っています。

 

「主の息が、その上に吹けば、草は枯れ花はしぼむ。」(40 :7)

この風は、直接的にはアラビア砂漠の熱風であり、すべての草花はたちまちの内に枯れてしまうという情景を物語っています。しかし同時にアッシリアという巨大帝国がたちまちのうちに滅びてしまい、今中東一帯を支配していたバビロニア帝国が、ペルシャのクロス王をによって滅ぼされてしまうという出来事を意味しています。いかなる権力者も、神の愛と、正義と、信仰に背いたものはたちまちのうちに滅ぼされてしまうのです。

 

今日本を取り巻く大国がその軍事力を伸ばし、経済力をもって支配しようとしています。しかし、もしその政治が神の愛と、正義と、信仰に背くものであるならば、必ず倒されるでしょう。

また、私たち個人にとっても、自己中心的で、傲慢な生き方を続けているならば、「草は枯れ、花は萎む」のです。

謙遜が求められ、十字架のイエス・キリストに従う道が示されています。そこにこそ永遠に残る道があるのです。

「人は、そのよわいは、草のごとく、その栄えは野の花に等しい。風がその上を過ぎると、失せて後なく、その場所に聞いても、もはやそれを知らない。しかし、主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にある」(詩篇103: 15-17)

 

今週も神の御言葉からくる深い平安が共にありますようにお祈りいたします。

小田 彰