2024.4.21

「共に恵みに預かるもの」

(ピリピ1:6〜8、ヨハネ15:12〜17)

 

新約聖書が教える信仰の姿は、個人的な強い信仰とともに、人と人との交わりにおいて、キリストの愛が発揮される信仰者たちの共同体についてより多く語っています。

「それは、私が獄にとらわれている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなた方をみな、共に恵みに預かるものとして、私の心に深く留めているからである。」(ピリピ1:7)

 

ローマの獄中のパウロから、ピリピ教会に送られた手紙のこの一節の中に大変深い内容が書かれています。

①パウロが活躍することができた時代にも、今のように獄中で拘束されている時にも、苦楽を共にしてくださった。伝道のために必要な協力を惜しまなかったばかりでなく、現在苦しい状況の中にあるときには、常に祈ってくださっている。

②いつもイエス・キリストの救いの恵みを共有し、十字架の愛によって共に祈り合うことができた。パウロの心に、それは常に大きな慰めでありました。

 

このような交わりは、教会が持っている真の交わり(コイノニア)です。それは「福音の共同体」という言葉で表現することができるでしょう。イエス・キリストの愛に裏打ちされた人々の交わりということができます。

 

しかし、現在、現実には、プロテスタントとカトリックの問題もあり、多数の教派間の問題もあり、真の教会というよりも、それぞれの民族や国家の背景によって、貧富の差や人種によって、この福音の共同体は分断されてしまっています。

ですから、なおさら兄弟姉妹が「共に、恵みに預かるもの」という信仰を持つ事は大切であり尊いことです。

 

この「福音の共同体」の教えは、主イエス・キリストの言葉から始まっています。

「私の戒めはこれである。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:12、13)

 

教会とは建物や組織ではなく、キリストの愛の交わりです。それは弱ったときには助け合い、また喜びを分かち合う交わりです。それは理想郷ではなく、現実に私たちが獲得していかなければならない交わりです。

パウロもまたその言葉を受けて、

「喜ぶものと共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)と言いました。

 

シスター渡辺和子先生の言葉の中に、「神の愛というものは、人間を不幸、災難、苦しみから遠ざけることにあるのではなく、それらの試練に耐える力を添えてくださることにあります」と、また、「互いに生きる自信を与え合っていく優しさではあるまいか」とありました。この神の愛を現実のものとするのは、私たち一人ひとりの信仰と愛のわざです。

 

1959年1月に、大東文化学院大学の学生が泥酔して、立教大学宣教師館に乱入し、チャールズ・E・ペリー教授を殺害した事件がありました。その葬儀には加害者の青年の母が涙にくれて出席していました。しかし、ペリー教授夫人は、「私は夫を殺された私以上に苦しみ、悲しむ人のいることを知っています。あなたのために主イエスに祈ります」とその母に言ったそうです。

 

「福音の共同体」に生きた宣教師夫妻は、福音を知らない人々に対しても、そのように祈りました。

 

伝道者パウロが「共に恵みに預かるもの」といった言葉が示している愛の交わりは、単にキリスト教会の中にだけではなく、外の社会にまで広がっていかなければならないのでしょう。そこにキリストの愛の力があります。

 

今週も神の祝福が皆様の上にありますようにお祈りしております。

小田 彰